箕島高校野球部の元監督・尾藤公さんが、3月6日午前3時37分、膀胱移行上皮がんの為、亡くなった。享年66歳。
小学生の頃から、スポーツが好きで、特に、高校野球甲子園大会には熱中していた。大会前に、新聞で掲載されている出場校の選手名鑑を切り取り、地方大会での戦績など、自分なりに戦力分析をし、優勝予想をして楽しんでいた。1回戦から決勝戦まで全試合観戦した。家から、よく自転車で甲子園球場まで行き、試合を観戦した。働き始めてからは、流石に全試合観戦することも出来なくなり、「熱闘甲子園」で試合結果を知ることの方が増えてしまったが、本当に高校野球に熱中していた。
そんな高校野球マニアともいうべき自分が、最も感動した試合が、1979年8月16日に行われた、和歌山・箕島高校と石川・星稜高校との夏の甲子園3回戦だ。この試合は、今も、「高校野球史上最高の試合」「神様が創った試合」と言われているので、詳細については、ここでは書かないが、ドラマの詰まった名勝負だった。
箕島高校は、星稜高校との熱戦にサヨナラ勝ちを収め、その勢いのまま、夏の甲子園を制し、公立高校としては初めての春・夏連覇を成し遂げた。史上最強のチームはどこか?と問われれば、甲子園史上初の春夏連覇を成し遂げた作新学院、やまびこ打線の池田高校、清原・桑田コンビのPL学園、怪物松坂を擁した横浜高校が思い浮かぶ人が多いと思うが、この時代の箕島高校も史上最強チームとしてあげる人も多いかと思う。ただ、箕島高校は、他の強豪校と比べてると、圧倒的な力を持った選手がいない。他の強豪校には、即プロで通用するスーパースターがいたが、箕島高校は、石井―嶋田のバッテリーを中心に、上野山、北野、上野のクリーンナップも強力ではあったが、飛び抜けた存在ではなかった。どちらかというと、春の大会の決勝でも対戦した浪商の牛島―香川のバッテリーの方が、注目度が高かった。実際に、甲子園での戦いぶりも、他の強豪校のような大量点差をつけての圧勝というのはなく、星稜高校との対戦や、春の決勝の浪商戦に代表されるように、いずれも接戦を制しての勝利だった。強いいというか、本当に負けないチームだった。その負けない強いチームを作ったのが尾藤公監督だ。「尾藤スマイル」と言われる何とも人懐っこい笑顔で、選手を鼓舞し、選手の実力を引き出す。選手皆が委縮することなく、伸び伸びとプレーし、チームが一つに纏まっている。当時、送りバントのミスを繰り返す阪神タイガースの選手に向かって、「箕島の選手を見習え!尾藤監督に教えて貰え!」とよく野次ったものだ。
江川、愛甲、荒木、清原、桑田、松坂、ハンカチ王子にマー君などのスーパースターの活躍というのも高校野球の魅力であるが、自分には、箕島高校のようなチームの活躍が高校野球の醍醐味であり魅力であると思っている。そして、尾藤監督が、高校野球の素晴らしさを教えてくれた、史上最高の名将だと思う。
告別式では、箕島高校野球部OBだけでなく、星稜高校の山下監督他野球部OBも参列され、箕島高校の校歌で、尾藤さんのか天国への旅立ちを見送った。
中学生の頃、箕島高校生ではないけども、箕島高校の校歌を覚えて、自分もよく歌ったものだ。
尾藤さん、夢と感動を有難う御座います。ご冥福をお祈りします。
※奇跡の試合、延長12回裏1-2 2アウト、バッターボックスに向かう前に尾藤監督に、「僕、ホームラン狙ってもええでしょうか?」と言って、本当にホームランを放った嶋田宗彦選手が、10年後の同じ日、甲子園の阪神巨人戦で、サヨナラヒットを放ったのを今でもよく覚えている。